「ひな祭り」
雛祭りは人形(ひとがた)の風習、「天児(あまがつ)、這子(ほうこ)」などによる祓いの信仰、「ひいな遊び」などの行事が融合したものと考えられている[2]。
古代中国には上巳の日(3月最初の巳の日)に川で身を清める風習があり、これが日本に伝わって草や藁など作った人形(ひとがた)に穢れや災いを移して川や海に流す風習と融合したとされる[2]。また、貴族の間では幼児を災いから守る「天児と這子」が作られ、後の「立雛」の起源になった[2]。一方で上流階級の子女の間には「ひいな遊び」という遊びがあった[2]。
京都では平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われ、その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられている。初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためである。一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。当時の乳幼児死亡率は現代とは比較にならないほど高く、赤ん坊のうちに亡くなることは珍しくはなかった。親としては必死の思いでこの成長を見守り、枕元には形代を置き、厄除けとした。そして、1年の災いを、春のひな流しで祓う。これが、ひな祭りの起源である[4]。